あまり時間がないので、駅に近いものだけを見た。
実際に住んだらどうなのかはわからないが、なんとなく住んでみたいなーと思う。とくに、一人暮らしには便利かもしれない。
向うには、新しく立替えられた建物が見える。
こちらは古いままの建物。
集合した後、旧岩槻街道 を稲付城跡の静勝寺へ。
街道を下に見て、舌状に突き出た丘のうえで、砦には絶好の場所だ。室町時代に太田道灌(1432~1486)が造ったと言われている。
このお寺は太田家の菩提寺として受け継がれており、26日は太田道灌の月命日なので、木像の御開帳がされていた。
お寺だけどかっこいい狛犬があった。
城(砦)の中心はお寺のあたりだったが周りの丘も砦の一部だったらしい。
普門院。 鎌倉時代の創建らしい。廃仏毀釈までは稲付香取神社の別当寺だった。台湾風の鐘楼門、インド風の仏塔が目を引く。
岩槻街道と中山道を結ぶ道の入り口にある庚申塔、道標を兼ねている。
岩槻街道沿いにある法真寺への道案内?の石塔。日蓮宗なので南無妙法蓮華経と彫ってある。手前の石像は馬頭観音だろうか、すり減っていてわからなかった。
その全景、桜の木もあって立派だ、柵はじゃまなようにも思うが。
丘の上にもどって、香取神社に向かう。
本殿は上野東照宮の建物を1650年(慶安3年)に移築したと言われている。大事にされていて、保護の建物で覆われているので見ることはできないが。
スカイツリーが見えた。
新幹線、埼京線。
参道。
立派な歩きやすい階段だった。
階段の下の石柱には1839年(天保10年)竣工と彫ってあった。奉納者の名前もおおぜい彫られていた。
さっき道案内の石柱があった法真寺。1537年(天正元年)の開山。
いったん谷に下りて、向の丘に上る。振り返って、香取神社の丘を見た。
清水坂公園のすべり台。丘の傾斜を使って作られている。以前に来た時にも滑ったが今回もまた滑った、参加者10数名いたのにぼくだけだった、おっちょこちょいなのかなー!
タモリのテレビ番組で、把瑠都関が横になって通った階段、狭くて急だ。
崖の途中の斜面に家が建っているので、登山道みたいに上下の家の間をはしっている細い歩道がいたるところにある。
環七に出た。ここには稲付川(北耕地川)の橋である姥ヶ橋がかかっていた。環七が開通した時に暗渠になり、その後、環七に陸橋が出来たので、橋が二つ付く陸橋名になった。
下の道路が稲付川(北耕地川)の川跡。
右側あたりに続きがある。
これがそうだと思われる。さっきの道路よりは高い位置にあるが明治39年の地図によるとさっきと同じレベルの掘割がしばらく続いて、石神井川の取水口につながっていたらしい。
旧中山道の縁切り榎。この木は3代目らしい。若い人がつぎつぎとおまいりしていた。縁切りを願う人が多いのだろうか、絵馬もいっぱいかかっていた。
都営三田線板橋本町駅は過ぎたが、埼京線の板橋駅まで旧中山道を希望者で歩いた。
板橋の名前の由来となった石神井川に架かる橋。現在はコンクリート製。
このあたりの石神井川はコンクリート護岸で直線化されているが、昔は曲がって流れていたらしい。
この付近の古いタイプの家はここしかないらしい。ここも廃業(米屋)していたが。以前に中山道歩きをした時には現役だった。
明治時代の建物らしい。
庚申塔、1661年(寛文元年)のもの。青面金剛が彫られているものとしては都内最古らしい。柵付きのお堂に祀られているので、柵の間から2枚撮った。
板橋駅付近の千川上水跡。
この付近では尾根筋を流れていたので、小さな谷を越える時は盛り土をして流していた。谷が道路になったような交差点では旧千川上水跡の道路が盛り上がって不思議な雰囲気がある。こういうのが何か所もあった。
板橋駅前にある慰霊塔。ここで処刑されたらしい。板橋宿の遊女の埋葬場所でもあったらしい。目の前はにぎやかな駅なので、時の移り変わりを思う。
松本泰生先生の案内で興味深く歩いた。たのしかったです、ありがとうございました。
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