まず、資料からアジアを集計した。PCにインプットか手書きか迷ったが、たまたまこのホテルの便せんがあったので手書きにした。
昨日、投稿して書いた、初めての海外出張のインドネシアの調査は商社の人が優秀だったので、無事に2回で終わって、全社挙げての大規模工場建設プロジェクトとして引き継がれた。ぼくたちの出番はなくなった。しかし、残念ながら2年後ぐらいに中止になっていた。
インドネシア・ジャカルタ近郊の田舎のバス停。小学生や高校生?の雰囲気が日本とよく似ていた。インドネシアは居心地のいい国だった。
次の海外出張はパキスタン・カラチだった。小型の工場建設の調査だった。この時は先の商社の人に加えて当社の技術屋さんも加えた10人ぐらいのメンバーだった。ぼくは途中で仕事が代わって外れたが、パキスタンは政情が安定せず、経済成長もせず、ずっとたってから中止になったようだった。街中でもラクダに乗って移動している人が結構いておどろいた。
こちらはロバ。
ぼくが出張していたころも政情不安定で銃撃があって外出自粛があったり、夜中に遠くでヘリコプターからの曳光弾が見えたりした。ピックアップトラックに機関銃を据え付けている。
隣を走る機関銃付きの車。
工場の候補地を見に行ったりするときはガードマン付きだった。AK47をもっているが突っかけを履いていて、気楽に構えていた。どのガードマンもだいたいこういう感じだった。
海外出張にも慣れてきたころ、ベトナム・ホーチミンの工場用地取得許可をベトナム当局からもらう折衝を担当した。共産主義国で土地はすべて国有 、許可をもらって使う。国、地方のお役所や地方の共産党本部に何度もお願いに行った。その工場の竣工式。習慣的な行事らしいが、日本とよく似ていた。
ほかの国でも製造技術の指導・貸与に関することがらの折衝が多かったがシンガポール、香港ではIR活動も担当した。
入社して27年間海外に関する仕事を担当することになるとは考えたこともなかった。
次の投稿はUSAの子会社立て直しの海外出張にする予定だ。
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