以前に巾着田のヒガンバナを見物する街歩きに参加して、その時にさっと通った。日本書紀や古事記つながりで、もう一度、高麗郷を歩いてみたいと思っていた。歳とって心もとないので、同じ会社OBの友人についてきてもらって歩いた。高麗郷は600年代後半に高麗(高句麗)が唐、新羅に攻められて滅んだので、日本(倭)に逃れて来た渡来人(現代でいう、難民。ただし、倭より先進国だったので有能な難民)を朝廷が700年代前半に関東各地から集めて作った集落だ。1800人ぐらいだと言われている。朝廷は有能な人達を囲い込んで使ったのではないかと推測する。
JR八高線高麗川駅からタクシーで高麗神社へ。早速、異国情緒のある石造物があった。高麗王若光を祀る神社で、猿田彦、武内宿禰も祀られている。宮司は代々高麗王若光の子孫が勤めていて、60代続いているらしい。
昔は神社の宮司の家だったらしい。江戸時代の建物の復元だと思うが、ほかの場所で見る同時代の農家とはどこかが違う。渡来人の感覚が残っているのだろうか。次に高麗山聖天院に行った。ここでもこの石造物があった。
立派なお寺だ。
眼下に高麗川が流れる平地が広がっている。高麗郷は開拓当初は大変だっただろうが稲作には適していたと思われる。
境内にある石灰岩のかたまり。
不動明王が安置されていた。シャクナゲ。
高麗郷が出来た時に朝廷から統治者に任命された元高句麗高官の「高麗王若光」のお墓(高麗王若光稜と表示された祠)の前の狛犬に当たる位置には羊の石像が一対置かれていた。狛犬と同じく祠を守っているのだと思われる。このお寺は奈良時代に高麗王若光の菩提寺として創建されたらしい。
日和田山の金毘羅神社まで登った。巾着田が一望できる。巾着田は現在はヒガンバナの見事さで有名だが、これは1970年代後半に観光として有名になったものだ。もともとは高麗郷が出来た時に稲作適地として開墾された場所だった。高麗川の水利が得やすい場所だったのだろう。
この方向に富士山が見えるらしい。今日は見えなかった。
ヤマツツジ。
この後、遅めのお昼ごはんを手打蕎麦玄蔵で食べた。雰囲気のいいお店で、おいしかった。高麗郷古民家(旧新井家住宅)と高麗郷民俗資料館を見学したかったが休館日だった。
古民家は外から眺めたが異国情緒がただよっていた。
楽しく歩いて西武高麗駅から帰った。
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