平清盛の時代からはずっと後のことになるが、西国街道の兵庫津の宿場の西の門がここにあたる。
そこにある神社が柳原蛭子神社。
北隣にある福海寺。清盛が大切にし、隆盛を導いたと言われている「時雨の松」の史跡。
石碑がある。
足利尊氏の史跡もある。
東の門の跡。
そこにみなと八幡神社がある。
「迷い子のしるべ」、江戸時代のものらしい。説明書き: 「当時迷い子ができた家では、ここに来て子供の特徴や年齢、住所、氏名を紙に書いて「たづぬる方」の上のくぼみに張付けます。子供を発見した人はここへ連れて来て、幸いにたづねる家の人に会えばすぐ引き渡し、もし発見者の方が早ければ「しらする方」の上のくぼみに住所、氏名などを紙に書いて張付けておきます。双方がここへ来るので、たいていの場合すぐ解決がついたようです。
尚、左右のくぼみは張付けた紙が風に吹き飛ばされないためでありましょう。
昭和四十六年四月これを修復すると共に、その左側に同一のものを併せ建立し永く保存しようとするものであります。」
戦死した平家の公達に関係した史跡が多い。地元で大切に供養されているようだ。
「にゃー」と声をかけた。
「にゃー」と答えてくれた。
違う側の参道。こちらがもともとの参道かも知れない。
右側:白鶴、左側:大関。
気になった建物。
大輪田泊の雰囲気がある場所に着いた。
築島寺。
奈良・平安時代の大輪田泊の施設の石材らしい。
この運河は清盛の時代よりずっと後に、埋め立て地の中に掘られたものだが、当時の港の雰囲気が感じられる。
中央市場は清盛の時代には海だったらしい。
室町・江戸時代の兵庫城跡に建っているイオンモールでお昼ご飯。
阿弥陀寺。うしろにイオンモールが見える。
清盛が魚を供養した魚御堂の礎石と伝わる巨石。湊川の戦の時、足利尊氏が楠正成の首あらためをした石とも伝わる。
この付近には、ねこちゃんがやたらと居た。
大輪田泊跡と考えられる埋め立て地を囲むように運河が走っている。
清盛橋。
薬仙寺。当時は海間近だっただろうから、圧力をかけるために海辺に閉じ込めたのだなーと思った。
この天皇は藤原氏に追いやられた悲劇の人。
和田神社。元々は蛭子大神が淡路から来られたと言う由緒の神社。大輪田泊改築の時、清盛が事業の成功を祈願して、安芸国厳島神社から弁財天(市杵島姫大神)勧請したと伝わる。
「弁天さん」、「戎さん」が御祭神の説明看板に書かれているのがいいなーと思った。
隣の神社。清盛の史跡はないが気になったので行ってみた。
この石像は何だろうと近づく。
神宮皇后、武内宿禰、抱かれているのは後の応神天皇だった。兵庫には神宮皇后ゆかりのものも多い。
神宮皇后と推古天皇が神事に使われたと伝わる三つの石。
和田岬駅。ビルがないので、背後にせまる山がよく見える。駅周辺は三菱重工業・三菱電機(およびその関連企業)の工場が広がる工場街であり、当駅の利用者も工場への通勤者が多数を占める。小学生の頃、祖父に連れて来てもらって、進水式を見物した記憶がある、多分このあたりだったと思う。
住宅地化しているようで、子供連れの若い人達が多かった。
かわった雰囲気の建物。
大輪田泊の背後は山であることがわかる。
御崎八幡神社。清盛の史跡ではない。
清盛橋にもどって来た。
真光寺。一遍上人ゆかりのお寺。ここにも清盛が安芸国厳島神社から弁財天を勧請した。
能福寺。この大仏さまは清盛時代の史跡ではない。兵庫大仏と呼ばれていて、迫力があった。ここは清盛が出家した寺と言われている。
清盛が京都で亡くなった後、この寺の住職が遺骨を持ち帰ったと言われている。
金光寺。付近の海中から薬師如来像が引き上げられ、清盛が本尊として建立したと伝わる。
清盛が経ヶ島を築いた際に水難克服を祈願した弁才天が祀られている。安芸国厳島神社から勧請したらしい。閉まっていてはいれなかった。
厳島神社。 清盛が建立した神社。
1日目の平清盛史跡歩きはここで終了。この後、友人達と三宮で夜ご飯を食べる約束なので、地下鉄で湊川駅から県庁前駅に行って、四宮神社にお詣りして、歩いて生田神社に行き、お詣りして、待ち合わせ場所の東急ハンズに行った。
ぼくの名前は、父方の祖父がここで名づけてもらったらしい?というわけで前から来てみたかった。
戦前は花街など神戸の繁華街の間近だったと思われる。
生田神社。
ちょうど巫女さん達の勤務が終わる頃で、あちこちと片付けに走り回っていて、おもしろかった。
この後、友達とわいわいがやがやとたのしかった。
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