右の建物は神戸大学病院。ここは広大な平頼盛の邸宅跡と言われている。頼盛は清盛の弟で、父の忠盛の正妻の子供なので、忠盛の跡を継いで統領になってもおかしくない人だった。平家滅亡後、清盛の男兄弟でただ一人生き残っている。また、頼朝から厚遇を受けて、頼朝と後白河法皇など朝廷側の折衝役をしていたと言われている。鎌倉に住んでいた時期もあるらしい。
宝地院は幼稚園をやっていて、はいるのを遠慮した。呼び鈴を鳴らせば、はいれるようではあった。
隣のお寺。ここも邸宅跡と思われる。
荒田八幡神社。ここも邸宅跡、邸宅内では一番高い場所だったと思われるので、重要な建物があったのではないだろうか。
隣は公園。山が近い。
どんどん山の方へ行く。この天王川の向う側に清盛の邸宅があったらしい。
この道は有馬街道なので、古い家もあった。
賽神が祀られていた。
清盛の時代にも存在していた古い神社で、清盛の邸宅のすぐ裏にある。
大輪田泊も一望できる。
参道下の有馬街道の向う側に気になる看板があったので、道路を渡って行ってみた。
「えっ」道なのと言う細道だった。
清盛もはいっていたという温泉だった。
湯気が出ている。30度ぐらいで湧き出しているらしい。
川はきれいだ。クレソンがいっぱい生えていた。
さっきの道をもどった。
案内図にのっている東福寺をさがす、道がこみいっていて、しかも、崖沿いなので、わかりにくい。 祇園神社の門前町だったのか古い街並みが数十m残っていた。
崖地の古い邸宅。
すっかり迷ってしまった、googleの使い方が悪いのか、これまたよくわからない。結局、出会った子供連れのお母さんに教えてもらった、地元では有名ではないらしく、しばらく話して、「ああ、あそこね」と教えてくれた。親切な人達だった。
ずっと、山(崖)寄りの方に来てしまっていた、せっかくなので、塔の方に行ってみた。
祥福寺。江戸時代創建のお寺だった、すごく立派で、手入れ、掃除が行き届いていた。
塔の所へは、入れる範囲の境内からの道はみあたらなかった。
参道前の古い家。
東福寺。たどりついた。現在は小さいお寺だが、清盛が七堂伽藍を寄進した大きなお寺で、源平合戦で焼失したと言われている。
湊山小学校の敷地に建っている清盛の邸宅跡の石碑。雪見御所跡。東の天王川、西の石井川が合流する三角形の広大な土地にあったらしい。
この湊山小学校も跡地の一部。
石井川。
またまた見つからず、やっとたどりついた夢野八幡神社。やはり細い道と崖下の立地条件で迷ってしまった、またまた数人で歩いていたお母さんに聞いたのだが知らなかった、通りかかった子供を乗せる電動自転車のお母さんが近くまで案内してくれた、自転車を追いかけての早足だったが助かった。この辺りは親切な人達が多い。
清盛がここでのろしをあげさせて、測量のようなことをしたらしい。
湧水が豊富。正面と右側。
すぐ近くの氷室神社。清盛が安芸国厳島神社から市杵島比売命(弁才天)を勧請した。
なんとなくおどろおどろしい感じがして、ぞくっとする境内。
若い女性が一心に何かを書いていた。しばらく待って、書き終わってからお参りした。
距離的にはすぐそこなのだがここに来たら、とつぜんくらくなって、ヒョウかアラレか、がばらばらと降って来たので、ますますおそろしさがました。
氷室跡。
このような悲話の跡地なのだが、恋人達の聖地としてハート型の絵馬で売出し中だった。
出るころには陽が照っていた。さっきまでがうそのようだ。
説明パンフレットによれば、この神社には、たくさんの言い伝えがある。
1、日本書紀に出てくる、「香坂、忍熊皇子と神宮皇后との戦いの際の赤猪の話」
2、同じく、「仁徳天皇に氷室の氷を献上する話」
3、同じく、「仁徳天皇と八田皇后の菟餓野の鹿の話」
4、「平通盛と小宰相の話」
の舞台らしい。
清盛が福原鎮護のために紀州熊野権現を勧請したと言われている。
背後の急斜面。
排水のための湊川隧道跡。新しい隧道が出来たので、今は使われていない。近代化産業遺産。
覗いて見た。
NTT大開ビルの鉄塔が見える。大輪田泊(兵庫津)の方向だ。
善光寺。戦死した平業盛(清盛の甥)の塚がある。
戦死した平通盛、小宰相局、乳母の呉葉の五輪の石塔があった。
この後、ここでも突然アラレかミゾレにみまわれた、傘をさして湊川駅に急ぎ、地下鉄で新神戸駅に出て、帰った。充実した2日間だった。
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